(「76.25円=ドル円の史上最安値はウソ!?(1) 1ドル=1円の日本はどんな時代?」からつづく)
■日本から金が流出していった…
明治のはじめから中頃にかけて、1ドル=1円から1ドル=2円へ向かって大幅に円安が進んだ要因について、前回の記事では西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が大量発行されたことを挙げた(※)。
この時代に円安が進んだ理由はもう1つあった。それは金(ゴールド)の価格と銀の価格を比べたとき、欧米主要国よりも日本では銀がより高く評価されていたことだ。
このため、欧米から安い銀貨が持ち込まれ、それが日本で金貨に交換されたのち、欧米に流出してしまうということが幕末以降起こっていた。そして、日本には金(ゴールド)がなくなっていき、事実上、日本は銀本位制のようになっていったのだ。
一方、その頃の欧米主要国では技術の進歩などで銀の生産量が増え、銀の価格は下がる傾向にあった。また、欧米主要国は金本位制に移行していき、銀よりも金(ゴールド)を重視するようになっていた。
このため、事実上銀本位制となっていた日本円は、金本位制の欧米主要国の通貨に対して安くなっていくということが起こっていたのだ。
(※前回の記事同様、今回も故吉野俊彦氏による『円とドル』(NHK出版、1996)という書籍をおもに参考にさせていただきました)
■日清戦争の賠償金を得て、金本位制を採用
さて、このような円安の流れがピタリ止まったのが、1897年(明治30年)のこと。下の米ドル/円チャートを見るとわかるとおり、このあたりから長い間、米ドル/円相場は1ドル=2円あたりでそれほど動かなくなっている。
では、1897年(明治30年)に何が起きたのか。
日本ではこのとき、「貨幣法」が制定され、正式に金本位制が採用されたというのが大きな出来事だった。
金(ゴールド)がどんどん海外へ流出していたというのに、なぜ日本はこのときになってきちんとした金本位制にこぎつけることができたのだろう?
それは日清戦争に勝利したからだった。日清戦争に勝利した日本は清国から多額の賠償金を得た。賠償金は英ポンドで支払われたが、その英ポンドをロンドンで金(ゴールド)に換えて、日本に持ってきたのである。
その金(ゴールド)が日本が金本位制をとるための基礎になったのだ。
■金本位制になると、為替はどうなる?
この1897年(明治30年)の貨幣法では、金(ゴールド)750ミリグラム=1円と定められた。
前回の記事で述べた1871年(明治4年)の新貨条例では、金(ゴールド)1500ミリグラム=1円だったから、同じ1円で半分の金(ゴールド)しか買えなくなったことになる(「76.25円=ドル円の史上最安値はウソ!?(1) 1ドル=1円の日本はどんな時代?」参照)。
つまり、金(ゴールド)に対して、円の価値が半減するように法律で定められたのである。これは為替の実勢相場で明治初期以降、円安が進み、円の価値がすでに下がっていたことを追認したような形となった。
ともあれ、この時点で同じく金本位制を採用していた米国との間の為替相場は落ち着くことになった。
金本位制のもとでは、当該国の通貨と金の交換比率が定められる。その交換比率は変更されることもあるが、通常はそれほど頻繁には変更されない。となると、金(ゴールド)の価値は万国共通という認識のもと、金(ゴールド)を介して算出される通貨と通貨の交換比率(つまり、外国為替)も安定した推移を示すことになる。
こうして、おおよそ1ドル=2円という米ドル/円レートの時代が結構長く続くことになったのだ。このように、各国の金と通貨の交換比率が変更されない限り、金本位制のもとでは為替は固定相場のようになるようだ。
■戦争のため紙幣が大量発行されて、激しく円安が進む
このあとの米ドル/円相場は1923年(大正12年)の関東大震災後に震災復興のための輸入が大幅に増えたことで、円安が進んだりしたことがあった。これは東日本大震災後、いったんは円高になったものの結局は円安に動き出した今の相場と重なるものがあるかもしれない。
また、それ以前には1914年(大正3年)からの第1次世界大戦への参戦に伴って、金本位制から離脱したり、それがまた復帰したりといった出来事がいろいろあった。
だが、決定的に円安が進み始めたのは上のチャートを見てわかるとおり、1931年(昭和6年)頃からだ。1931年(昭和6年)というと満州事変の起こった年。ここから日本は長い戦争の時代に入っていった。
明治のはじめの名目だけの金本位制とは異なり、本格的な金本位制では、兌換紙幣と金の交換が常に保証される。だから、中央銀行が金の保有量に関係なく、無制限に紙幣を発行することはない。
けれど、戦時色が強まり、膨大な軍事費が必要になってくると、紙幣は適切な量を発行するに止めておくわけにもいかなくなってくる。
そんなわけで、日本は満州事変の起こった1931年(昭和6年)には事実上、金本位制を離脱した。また、1932年(昭和7年)には日本銀行が発行できる紙幣の限度額を大幅に引き上げた。
そして、巨額の軍事費をまかなうため、赤字国債が大量に乱発され、日本銀行はそれを引き受けた。それによって、通貨の流通量が大幅に増えていったのである。
お金が世の中にあふれれば、お金の価値は下がる。これは当然、円安要因になった。
■大恐慌で米国の金本位制はどうなった?
では、この時期の世界情勢はどうだったのか?
米国ではこの少し前、1929年(昭和4年)に大恐慌が起こっていた。1930年代はそれが世界へ広がっていた時期に当たる。このため、各国は金本位制から離脱し、通貨切り下げ競争が起こった。
さらには、友好国同士のみで貿易を行うブロック経済が広がったあげく、最後は第2次世界大戦に突き進んでいったというのは歴史の教科書などによく出てくる話で、おそらく読者のみなさんもご存じのことだろう。
ただ、大恐慌のお膝元、米国は意外と(?)頑張っていたようだ。金本位制から完全には離脱しなかったのである。
米国は1933年(昭和8年)に米国国内での紙幣と金(ゴールド)の兌換を禁止はした。ただ、外国の政府や中央銀行が持っている米ドルに対しては、一定の条件のもとで、米ドルと金(ゴールド)を兌換することを維持したのである。つまり、条件つきではあるが、金本位制を一部維持したのだ。
このとき、米国は金価格の切り上げ(つまり、米ドルの切り下げ)も行ってはいるが、金本位制を完全に離脱し、通貨の発行量が大幅に増えた日本などと比べると緩やかな処置だったと言える。
この結果、結局、米ドル/円ではこのあたりから、急速な円安が進んでいくことになったようなのだ。
この頃の米ドル/円チャートを今一度見てみよう。チャートは右肩上がりで急角度に上昇している。
これだけ、激しく円安が進行しているのは日本がそれだけ大変な戦争の時代へ突入していったことを象徴的に示しているように記者には感じられた。
さて、激しく円安が進んだといっても、この頃は1ドル=4円台。これが戦後になって、なんで1ドル=360円というかけ離れた値になってしまったのか?
■なぜ、終戦直後の日本でハイパーインフレが起きたのか?
さて、激しく円安が進んだといっても、この頃は1ドル=4円台。これが戦後になって、なんで1ドル=360円というかけ離れた値になってしまったのか?
それは終戦直後の日本で、とんでもなく猛烈なインフレ、いわゆるハイパーインフレが起こったからだ。
それにはさまざまな理由があったようだが、松原和男氏による「戦後の経済変動の出発点をめぐって」という論文を参考にさせていただき、その理由を挙げると、次のようになる。
まず、モノの需要と供給についてだが、戦火によって生産設備が甚大な被害を被っており、モノが供給不足となっていた。日本は天然資源に乏しいため燃料などは輸入に頼っていたが、これも米国以外は戦争の影響で生産が十分には回復していなかった。
その一方、海外領土からの引き上げや軍隊からの復員で国内の人口は増え、需要は増えていた。モノは供給不足、需要増大となっていたのだ。
お金の流れはどうだったか。財政的には、戦後しばらくは「軍事臨時費」として、戦争が終わったというのに軍事費の支出が続けられていた。また、米国の占領軍の経費は一部を日本政府が負担していたが、これも相当な額に上った。
そして、戦時には統制経済で貯蓄が強制されていたのだが、戦争が終わって貯蓄されていたお金が引き出されることになった。
このように結局、モノは足りない、お金はあふれているという状況になった結果、ハイパーインフレになってしまったということのようなのだ。
■ものすごい円安! 1ドル=15円があっというまに270円に!!
戦後すぐの時代は、一般的な貿易が自由に行えるようにはなっておらず、普通の為替相場はなかった。しかし、制限された状態での輸出入は行われていたので、為替相場が必要で、「軍用交換相場」というものが設定されていた。
この「軍用交換相場」は米国と日本のインフレ率の推移などから決定されたようだが、その推移は次のとおりだ。
1945年(昭和20年)9月 1ドル=15円
1947年(昭和22年)3月 1ドル=50円
1948年(昭和23年)7月 1ドル=270円
1円が2円に上がったとか、2円が4円に上がったとか、これまで戦前の米ドル/円相場についてあれこれ説明してきたが、そんな小さな違いがバカバカしくなるほど暴力的な円安進行だ。
ハイパーインフレで、こんなにも短期間に円の価値は暴落したのである。
■「預金封鎖」でハイパーインフレは収まったか?
戦前の1ドル=1~4円程度の為替相場と戦後の1ドル=360円からはじまる為替相場は連続的なものではない、そこには断絶があると考える人もいるかもしれない。
そういった人は「新円切り換え」とか「預金封鎖」といった言葉が思い浮かんだかもしれない。
これは一定額以上の紙幣(旧円)を強制的に金融機関に預け入れさせるとともにこれを封鎖。ある期日以降は新たに発行された紙幣(新円)のみを決められた額に限って引き出せるようにする施策だった。
今の日本でもシステム障害でATMが使えない、銀行預金が引き出せないといったことは起こっているが、それとこれとは話の次元が違う。今、「預金封鎖」のようなことがあったら暴動でも起こりそうな大変な処置だが、これはハイパーインフレ対策として行われたのである。
戦後のこの時に限らず、紙幣の変更はときどき行われており、そのこと自体でお金の価値の連続性が途切れることは通常ない。とはいえ、「預金封鎖」がプラスされていたこの時は特別であり、その前の「旧円」とその後の「新円」の間には断絶があるという考え方もあるのかもしれない。
ただ、「新円切り換え」が行われたのはいつか確認しておくと…。これが1946年(昭和21年)2月に実施されたことなのだ。先ほどの「軍用交換相場」の推移にこれを書き加えてみよう。
1945年(昭和20年)9月 1ドル=15円
1946年(昭和21年)2月 新円切り換え
1947年(昭和22年)3月 1ドル=50円
1948年(昭和23年)7月 1ドル=270円
これを見れば、新円切り換え後も円安が続いたことがわかるだろう。新円切り替えは一時的にはインフレ抑制に効果があったものの、結局これでは最終的にハイパーインフレは収まらなかったのだった(最終的には1949年(昭和24年)に実施された「ドッジ・ライン」という財政金融引き締め政策によってハイパーインフレは収まることになる)。
つまり、「1ドル=4円程度→新円切り換えで一夜にして1ドル=360円へ!」といったことにはなっていないのだ。このように見てくると、明治初期からの「円」という通貨は今に至るまでずっと続いてきたと言えるのではないだろうか。
■今また、歴史的な大転換点を迎えつつあるのか?
1949年(昭和24年)4月、連合国軍総司令部(GHQ)は米ドル/円の為替相場を1ドル=360円にすると発表。1ドル=360円の固定相場制がはじまった。
戦後20年以上は、米国が金本位制を維持する一方、米ドルと各国通貨との為替相場を固定する「ブレトンウッズ体制」の時代だった。1ドル=360円の固定相場制は、この「ブレトンウッズ体制」のもとで維持されたのである。
そして、「ブレトンウッズ体制」は1971年(昭和46年)に米国が金本位制からの離脱を突然宣言するまで続いた。「ニクソン・ショック」と呼ばれる宣言だ。
さらに、1ドル=308円のスミソニアン体制という短い期間を経て、1973年から完全な変動相場制となっている。
このあたりからはおそらく読者のみなさんもよくご存じの為替相場の歴史に入ってくるのではないだろうか。
前回、今回の記事では、明治の初期、1ドル=1円からはじまった米ドル/円相場が、戦後1ドル=360円に達するまで70年以上の動きをおもにたどってきた。
この期間、米ドルに対する円の価値は360分の1に下がってしまったことになる。しかし、そこからは一転、米ドルに対する円の価値は長期に渡って上昇する時代に入った。
そして、2011年(平成23年)の今、福島第一原発の事故により、日本の国土は広島、長崎への原子爆弾投下以来と言っていい大規模な放射能汚染の可能性に脅かされている。
そのような状況下で直近の米ドル/円相場は、戦後の変動相場制以降で円の最高値となる76.25円を記録したあと、一転して急速な円安局面を迎えつつある。
果たして米ドル/円相場は、そして日本は、今また歴史的な大転換点を迎えているのだろうか?
(ザイFX!編集部・井口稔)
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