そこでザイFX!は陳さんに、相場じゃなくて「陳さんのこと」を聞きに行ってきた。
■幼少時代は舞台で「子役」をやっていた
中国・上海で生まれ育った陳さん。その幼少時代には、なんと「子役」をしていたらしい。いきなりひっくり返りそうになった。
「テレビはないから、舞台ね。私の母親が生まれた地方は越劇(日本の宝塚劇に似ている)で有名で、その地方の女の子はみんな舞台女優になったんです。私の母親もそう。昔は私もまあまあ、かわいかったからね(笑)」
…とかる~く自画自賛。

しかし、俳優を志すことはせず、美術家を志望。15歳では個展を開いたほどの腕前だったが、国立の美術名門校への受験に失敗したこともあり、1992年、天安門事件後の混沌とした中国を抜け出し、5000円を握りしめて、日本へやって来たそうだ。

■わずか所持金5000円で日本へ。来日初日は駅で寝た
「若い人はチャンスがあれば、中国より豊かな国へ出たんですよ。当時は日本かアメリカだった。今ならベトナムかインドとかへ行くけどね」
陳さん、このとき20歳。とりあえず日本語学校へ通おうと、親戚から借金をしての来日だった。
「だって、親の月給合わせて日本円で8000円なのに、学費と入学金を合わせて35万円ですよ。たまたま日本に親戚がいたから、その人を頼ったんです。無謀と思われるかもしれないけど、当時の我々の周りはみんなそうだった」
所持金5000円で、空港から新宿までリムジンバスに乗ったら残金2000円。しかも、迎えに来てくれるはずの親戚が1日到着日を勘違いしていたものだから、その日は「駅で寝た」そうだ。
借金した上に居候を決め込む身、文句は言えない。
「親戚にずっと頼るわけにもいかないから、すぐに仕事を探しました。勉強よりも、まず生き残らないと…。借金もあるしね」
■最初はテレクラのポスター貼りを…
日本はバブル崩壊後で、バイトを探すのも難しかったらしいが、来日して2週間で運よく仕事が見つかった。テレクラのポスター貼りの仕事だ。言っとくけど、違法だ。
「でも、その仕事は良かったよ。日払いで8000円になるから。警察に見つからないように夕方から貼り始めて6時間。夜中12時ごろまでかかったかな。雨が降ると仕事にならないから、毎日、雨が降らないように祈ってたね」
やがて、四畳半のアパートを4人でシェアし、交替で寝泊まりする生活がスタート。アルバイトでの稼ぎは月に十数万円。うち1万円は家賃として消えるが、風呂代、食費、交通費を使っても、月に10万円は貯金ができたそうだ。
「当時は女の子がすごくうらやましかった。スナックとかで働くと給料はいいし、きれいな洋服を着て、日本語もものすごい勢いで上達する。私は20代、ぜんぜん彼女ができなかったね。そりゃ1万円のアパートに住んでりゃ、できないよ」
陳さんは自らの20代を「失われた10年」と呼ぶ。どうやら彼女が一番欲しい時期に、恋愛とは無縁だったことが、かなり深い心の傷になっているらしい。
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