英国がEU(欧州連合)離脱問題で揺れている。6月23日(木)に行われる英国国民投票で、もしもEU離脱が決まれば、英ポンドは短期間のうちに20%、30%下落すると予想する向きもある。
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そのような「ポンド危機」は果たしてやってくるのだろうか?
ジョージ・ソロスをはじめとしたヘッジファンドが英ポンドに対し、猛烈な売り仕掛けを行う一方、中央銀行は巨額の為替介入や、さらには1日に2回もの利上げを行って(それも2回で合計5%もの利上げ!)、何とか英ポンドを支えようとこれに対抗。しかし、ついに中央銀行が敗れ去り、英ポンドは暴落を開始──これは、1992年9月16日(水)を中心とする日に実際に起こったことである。
1992年9月16日(水)──この日は「ブラックウェンズデー」と呼ばれている。
本記事では今から24年前に起こった、この「ポンド危機」について、紹介したい。
欧州通貨制度&欧州為替相場メカニズムとは?
「ポンド危機」に関係大ありなのが、1979年に導入された欧州通貨制度(EMS、European Monetary System)というもの。これについて、まず説明しよう。
欧州通貨制度ではECU(エキュ、欧州通貨単位)が制定された。これは当時のEC(欧州共同体)各国通貨を一定量含むバスケット通貨単位であり、要するに今のユーロにつながるものだった。
さらに欧州為替相場メカニズム(ERM、European Exchange Rate Mechanism)という為替の変動を抑えるしくみが導入された。これは決められたECUの中心相場に対して、±2.25%(一部の国は±6%)の範囲に各国の為替変動を抑えるというものだった。
為替相場が動いて、その範囲からはみ出しそうになったら、各国金融当局が金利を上げるとか、介入するなどして、そうならないようにするというのだ。
また、旧西ドイツの経済的な存在感が増していくにつれ、事実上、各国金融当局が目安とするのは対ECUの相場ではなく、対西独マルクの相場になっていったという。
1979年に導入されたこのERM、ときのマーガレット・サッチャー首相は乗り気でなかったそうで、英国は長らく参加していなかった。しかし、1990年10月、サッチャー政権の最末期になって、英国は結局、参加することになった。そして、これが結果的には危機につながってしまったのだ。
ハイパーインフレのトラウマでドイツは利上げ続行
英国がERMに参加した1990年10月は、実は東西ドイツが再統一した月だった。
再統一により、モノ不足だった旧東ドイツの人たちは、西ドイツの製品を自由に買える! ウェーイ! といった具合で買い物に殺到。この“統一特需”によって、ドイツ経済は絶好調となったのである。これでインフレ期待が高まり、ドイツは利上げを続けていくことになる。
また、“統一特需”が一巡して、今度はドイツ経済が減速に向かう中でも、ドイツ政府が旧東ドイツへの支援のために財政出動を行ったことや、かなりの格差があった旧東ドイツの賃金と旧西ドイツの賃金を平準化する方針が示されたことなどから、ドイツのインフレ率は上がり続けた。そこで、インフレを抑えるために、ドイツは利上げを続けていったのである。
(出所:IMFのデータより、ザイFX!編集部が作成)
ドイツは第一次大戦後にすさまじいハイパーインフレを起こしてしまった国。そのため、今に至るまでインフレには実に厳しい姿勢をとるお国柄だ。多少の景気低迷より、インフレ退治が大事!ということで、利上げを続行したわけだった。
1991年1月には6.00%だったドイツの政策金利は1992年9月初旬の段階では8.75%まで上がっていた。
一方、このころ、英国景気は低迷し続けており、1990年9月に15.00%だった政策金利は利下げサイクルに入った。1991年9月には10.50%まで利下げが進んだが、そこから8カ月ほどは10.50%のまま踏ん張り、1992年5月に10.00%へ利下げすると、そこからまた4カ月ほどはそのまま踏ん張っているという状態で、1992年9月を迎えていた。
(出所:財政金融統計月報のデータより、ザイFX!編集部が作成)
結局、ドイツの政策金利が8.75%だった9月初旬の段階で、英国の政策金利は10.00%であり、英国の政策金利の方がまだ高かったのである。
英ポンドは過大評価されすぎている!
このような状況に目をつけたのがクォンタム・ファンドを率いるジョージ・ソロスとその右腕であるスタンレー・ドラッケンミラーだった。
ソロスといえば、最近、トレーディングを再開したことが話題になったばかり。今後の世界経済に悲観的な見方をしており、ソロスはそれに基づいたポジションを取っているようだ。ただ、英国のEU離脱・残留については、EU残留派が勝つとみており、今のソロスが特に悲観しているのは英国ではなく、中国経済のようである(もしも英国がEU離脱となれば、英ポンドは急落すると警鐘は鳴らしている)。
【参考記事】
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そんなソロスを一躍有名にしたのが、本記事のテーマである1992年の「ポンド危機」というわけだ。
ジョージ・ソロスは1930年生まれ。1992年の「ポンド危機」のときはすでに62歳になっていた。意外と有名になるのは遅かったのかも…? この写真は1986年、55~56歳のころに撮影されたもの。最近、トレードを再開したというソロスはもう85歳になる。 (C)Ted Thai/Getty Images
英国はえらく景気が悪いのに、やせ我慢して高金利を維持し、対独マルク相場を一定の範囲に収め続けることは無理だろうとソロスは考えた。
英ポンドは過大評価されすぎているというわけだ。
成長率が0%台で、政策金利が10%!? そんなアホな!
このころの英国の実質GDP成長率は1990年が0.55%、91年がマイナス1.26%、92年が0.45%と非常に低調なものだった。それなのに政策金利は10.00%とどえらい高さ!?
一方のドイツは2年連続成長率5%台の“統一特需”ははじけたものの、それでも1992年の実質GDP成長率は1.51%と英国を上回っていた。それでいて、英国の方がドイツより政策金利が高かったのである。
(出所:IMFのデータより、ザイFX!編集部が作成)
現在の感覚でいえば、「成長率が0%台で、政策金利が10%、そんなアホなことが維持できるわけがない! ソロスでなくてもオレでもわかる!!」などと言いたくなるところだ!?
今の日本の成長率も0%台をウロウロしているが、そんななか、仮に黒田日銀総裁が突然、「政策金利10%に上げま~す」などと言い出したとしたら……黒田総裁は狂ったかと思われることになり、間違いなく、金融市場は阿鼻叫喚の地獄と化すだろう。それぐらい「成長率0%台、政策金利10%」は今の目からすると、不思議な感じがする。
もっとも昔は総じて、各国の金利は高かったし、そんなに簡単に「英ポンドは過大評価されている」とわかるものでもなかったのだろうが、そのころ、もしもFXがあったら、日本の個人トレーダーもソロスといっしょに英当局に立ち向かって、英ポンドを売っていたのだろうか?……なんてことをちょっと想像してみたくもなる。
金利や為替レートの引き下げはしないと繰り返す英当局
少し話が脱線したが、このようなソロスにとってはあり得ない状況も、英当局は維持できると考えていたようだ。
ソロスはこの「ポンド危機」で英当局に打ち勝ち、「イングランド銀行を破産させた男」(※)という異名を取ることになるのだが、このころ、金融関連のさまざまな発表を行っていたのはイングランド銀行(BOE[英国の中央銀行])の総裁よりも、ジョン・メージャー首相やノーマン・ラモント蔵相だったようだ。
(※実際にはイングランド銀行は破産までしたわけでなく、現在も存続しているのはみなさん、ご承知のとおり)
サッチャー政権の末期に蔵相となり、サッチャー退任後に首相となったジョン・メージャー。英国の欧州為替相場メカニズム(ERM)への参加に前向きだった。1992年撮影
(C)David Levenson/Getty Images
メージャー首相やラモント蔵相は「金利や為替レートの引き下げはしない」と1992年の夏以降、繰り返し発言を続けていた。そして実際、英ポンド買い・独マルク売りの為替介入を行って、英ポンド相場を支えていたのだ。
このころ、ラモント蔵相は「われわれは、必要なことはすべてやる」(※)という発言を繰り返していたという。現在の金融当局者も似たような発言をよくするが、結局、英国においてその後、起こったことを考えると、不気味な感じがしなくもない。
(※ロバート・スレイター著 三上義一訳『ソロス 世界経済を動かす謎の投機家』 早川書房 p242)
英当局者は自信ありげに「為替レートの引き下げはしない」と発言していたわけだが、そうはいかないだろうと考えていたソロスは1992年9月に入ると、英ポンド攻撃を本格化させていったようだ。
前代未聞の「1日2回利上げ」!
このとき、ソロスは単純に英ポンド売り・独マルク買いをしただけではなかった。
70億ドル相当の英ポンドを売り、60億ドル相当の独マルクを買い、それより少ない規模で仏フランを買った。それと同時に、通貨切り下げ後は株が上昇すると読んで、英国株を購入。また、逆に通貨高になるドイツ、フランスについては株をカラ売りし、債券をカラ買いした。そのポジションは総額100億ドル(当時のレートで1兆2000億円)に上ったという。
このようにソロスが英ポンド売りで攻撃をかけた結果、1992年9月15日(火)に、英ポンド/独マルクはERMが定める下限値よりわずかに高い水準まで下落してしまった。ソロスの勝利は目前に迫っていた。
翌9月16日(水)、英当局はまだあきらめていなかった。午前11時にラモント蔵相は政策金利を10.00%から2.0ポイント引き上げ、12.00%にすることを発表。さらにイングランド銀行はこの日、440億ポンド相当の外貨準備高から、150億ポンド(当時のレートで約3兆3900億円)を市場に投入して、英ポンドを買い支えようとした。
しかし、それでもダメだった。
ソロスだけでなく、他のヘッジファンドや、さらには実需筋もソロスの英ポンド売りに追随していたのだ。この日、「ポンドは『まるで蛇口から流れる水のように』売られていると、ある為替ディーラーは形容した」(※)という。
(※ロバート・スレイター著 前掲書 p255)
そして、前回の利上げから、わずか3時間15分後の午後2時15分、前代未聞の「1日2回目の利上げ」が行われたのだ。政策金利はさらに3.0ポイント引き上げられ、15.00%になった。どれだけ英当局が狼狽し、あわてふためいていたかがわかるような施策だ。しかし、ヒステリックとも言いたくなるようなこの施策も、もはや効き目はなかった。
ロンドンの街中では、政策金利が15%に引き上げられたことを報じる新聞が売られていた。1992年9月16日撮影。 (C)In Pictures/Getty Images
この日の夜、ラモント蔵相はERMからの離脱を発表。英当局は敗北したのだった。すでに英ポンドはERMが定める下限値を割り込んでいたが、これで完全に自由に相場が変動する状態となった。
英当局が政策金利を1日に2回も引き上げ、何とか自国通貨を防衛しようとしたが結局失敗したこの日、つまり、ソロスたちが勝利した日は「ブラックウェンズデー」と呼ばれるようになった。
ブラックウェンズデーの翌日、英国は正式にERMから離脱。政策金利は10.00%に戻された。
「ポンド危機」のとき、ポンドはどれぐらい下落したのか?
ここで、当時の為替レートの推移を確認しておこう。
ブラックウェンズデーの前日、9月15日(火)に英ポンド/独マルクは2.7829マルクだった。ソロスたちの売りにより、英ポンドは下落。ブラックウェンズデーの翌日、9月17日(木)には2.6413マルクまで下落している。3営業日で約5.1%の下落だった。
その後、英ポンドは続落していき、引け値が2.3910マルクの安値となったのは10月5日(月)のこと。ブラックウェンズデー前日から14営業日後に14.1%ほどの英ポンド安・独マルク高になったということになる。そして、その後、4カ月ほどはその安値を割り込まなかった。
ソロスは英当局に打ち勝ち、英ポンドがかなり大きく下落したのは確かだが、「ポンド危機」とか「ブラックウェンズデー」といった歴史に残るショッキングな名称に比べると、“事が起こった瞬間”の下げはそれほど激しくないようにも感じる。「短期間での為替の変動」ということだけでいえば、たとえば、2015年1月に起きたスイスショックの方がよっぽど派手だ。
【参考記事】
●ユーロ/スイスフランが約3800pips大暴落! スイス中銀が防衛ラインの撤廃を発表!
ただ、“事が起こった瞬間”以降も、英ポンドは続落していき、かなり下がったということは、今後の参考に覚えておくといいかもしれない。
英ポンド/米ドルのチャートも見ておくと、こちらはブラックウェンズデー前日の1992年9月15日(火)には1.8715ドルだったが、そこから大きく下落し、1993年の年初、1月4日(月)には終値で1.5020ドルの安値をつけている。3カ月半で19.7%ほどの英ポンド安・米ドル高となっていた。
ソロスのファンドは2400億円の利益を上げた!
この英ポンド絡みのトレードでソロスのファンドが得た利益は9億5000万ドルにのぼったという。英ポンド以外のトレード対象も含めると、その利益は20億ドルほどにもなると推定されている。
1992年9月は1ドル=120円付近で推移していたので、20億ドルというと、2400億円ということになる。ソロスはごく短期間にこれだけ巨額の利益を上げたわけだった。
このソロスのトレードは1カ月ほどしてからマスコミで報じられることとなり、それまで一般に知られる存在でなかったソロスは「イングランド銀行を破産させた男」として、一躍有名になったのである。
英ポンドという通貨が存在するのはソロスのおかげ?
ちなみにこのとき、イタリアもERMから離脱したのだが、その後、1996年に復帰している。そして、現在、イタリアがユーロ圏の一国となっているのはみなさん、ご存じのとおり。
一方の英国はERMを離脱したあと、再び復帰することはなく、結局、統一通貨・ユーロにも参加しなかった。だから今も英ポンドという通貨は存在し、日本のFX会社では英ポンド/円が取引できるというわけだ。
【参考コンテンツ】
●FX会社おすすめ比較:取引コストで比べる「英ポンド/円スプレッドの狭い順」
ソロスがイングランド銀行に戦いを挑んでいなければ、ヒロセ通商のウェブサイトで小林芳彦JFX社長が「ポンド取引めちゃ熱ですわ」などと言っていることもなかったかもしれないなどと想像すると、連綿と続く歴史の流れに胸が熱くなる思いがする!?
英国はERM離脱後、どうなったのだろうか?
英国は他国のことを気にすることなく、金利を自由に下げられるようになったし、英ポンド安にもなった。これは英国経済にプラスの影響を与え、皮肉にも英国経済は好転していったのだった。
だから、1992年9月16日(水)をブラックウェンズデーではなく、ホワイトウェンズデーと呼ぶ人もいるようだ。
2016年6月23日(木)、英国ではEU離脱の是非を問う国民投票が行われる。果たして今回、英国民はどのような判断を下すのだろうか? そして、その投票結果によって、再び「ポンド危機」は来るのだろうか?
(ザイFX!編集長・井口稔)
本記事作成にあたっては、以下の文献を参考にさせていただきました。
・ロバート・スレイター著 三上義一訳 『ソロス 世界経済を動かす謎の投機家』(早川書房)
・倉都康行 『12大事件でよむ現代金融入門』(ダイヤモンド社)
・羽森直子 「EU通貨統合の歴史的背景」(流通科学大学論集―経済・経営情報編-第17巻第2号)
・佐藤学 「EUにおける金融市場の統合とユーロ導入」(一橋大学経済学部/経済学研究所 三井住友銀行寄附講義「EUにおけるガバナンスと経済運営」)
・斎藤弘、朝木秀樹 「ドイツ統一コストと最近の欧州問題について」(日本銀行月報 1992年 12号)
・平野浩 「英国はなぜユーロに加盟しないのか」(Electronic Journal 第3318号)
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